昭和44年11月30日 夜の御理解 ★ 【入力者:岡村和一郎】


 お道のことでございますけれども、うーん、一日(思わ?)して頂いて、神様に信心のことをお礼を申し上げる。とりわけ、えー今日の、おー例えば、月末の月の最後のご祈念に、でございますから、そのお礼を申し上げる、うー、ことも、なお一段深いものでございます。
 もう繰り返し繰り、繰り返し、大祓いに大祓いでも心行くまで奏上して、お礼の(はな)にしたいというような気がいたします。皆さんどうでしょうか。
 今日一日で私、あのー、大祓いを上げさして頂いておりましたら、あのー天津の(谷?)させうて頂いて、えー、(あげましたら?)、★頂きますことがね、「それがはばかりながらじゃ」ということです(?)ね。「それがはばかりながらじゃ」。

 だから、必ずしも、はばかりながらということは、なんかいけないことのようにね、はばかりながら(しっぽけなし?)というように、その頂きますから、いけないようにありますけれども、はばかりながらでも、私はしみじみ頂けれるということは有り難い。
 (よく形のへん?)、例えば、青々と(ふにもおらやくの?)お大根がありますが、お大根の葉が生き生きと、青々とこうしておるということは有り難いことだと。ご神前に額ずかして頂いて、もう繰り返し繰り返し、お礼を申し上げても、申し上げても足りない。お詫びをさして頂いても、お詫びをさして頂いても、これで済んだとは思われないというような、もう信心として神様に通うておるそういうような思いで、ご祈念をさして頂いておりましたら、「そのことは、はばかりながらじゃ」とこう。ね。

 ですから、そういう、例えば、しみじみとして、相すいませんとか、有り難うございますとかというのが、私は、行に現される人が、いわばほんとの、はばかりながらしっぽけなじゃなくて、ほんとのいわば、(胸?)もいよいよ豊かに大きく入っていく人だと、私は思うんですね。
 けども、はばかりながらでもですよ、例えば、なら嘉朗さんあたりのように、佐田さんあたりのように、ね、まあ一端の信心が日頃でけておる人が、また今日はとりわけ家族中で、月ん月末のお礼参りをさして頂こうという。

 だから、(そげなとこに?)、やはり、はばかりながらかもしれませんね。はばかりながらね。はばかりながら、そうしなければおられない、繰り返し繰り返し、お礼申さなきゃおられない。だから、それがほんとに実生活に現された時が、ほんと(芽?)が生えるということになるん。
 しかし、そのはばかりながらでも、実を言うたら、でけてない人がたくさんあろうかと、こう思いますですね。

 まあ、私どもの場合は、はばかりながら、(ちょうしょ好対照の?)、ほんとにその根を頂かせて頂くために、本気で、信心即生活というおかげを頂かなければならんということになりますですね。  どうぞ。